水泳日本を築いた山中毅さんのオリンピック出場回数や競泳種目は?
2017/03/28
戦後の水泳日本を築いた山中毅さんが、肺炎のため死去されたとのニュースがありました。
78歳だったそうです。
嘗ての水泳日本を盛り上げた功績は高く評価され、私も子供の頃には一生懸命応援していました。
ラジオでの実況をよく聞いていたのを思い出します。
☆オリンピック3大会に自由形で出場
山中毅さんは、オリンピックに3回出場しています。
1956年のメルボルン大会、1960年のローマ大会、そして1964年の東京大会ですね。
競泳種目は自由形でしたね。
メルボルン大会では高校3年生で出場し、400メートルと1500メートルで銀メダルを獲得しています。
あの頃は開催国としてオーストラリアがとても強かったのを覚えています。
マレー・ローズとの一騎打ちが国民を大いに沸かせたものです。
ローマオリンピックでは、400メートル自由形と800メートルリレーで銀メダルを取りました。
また記憶は定かでないですが1500メートルではやはりオーストラリアのコンラッズとかいう選手と争ったような記憶があります。
そして1964年の東京大会にも出場し、400メートル自由形で6位入賞しています。
☆世界記録保持者として水泳日本の立役者に
山中毅さんは1939年1月18日に、石川県輪島市にて生まれたそうです。
ウイキペディアによれば身長171cmだそうですから、今では小柄になりますよね。
それでも輪島高校3年生でオリンピックに出場し大活躍ですから、日本国中が大声援を送っていました。
山中毅さんは、早稲田大学に入って200メートルと400メートル自由形で世界記録を出しています。
日本中が熱狂したのも無理はなかったと思います。
☆戦後の復興期に精神的な貢献は絶大
山中毅さんは古橋広之進さんとともに、まだ小学生だった私の脳裏に強く残っています。
古橋さんは戦後すぐだったので時々ニュースなどで話を聞く程度でしたが、山中毅さんは
親父に連れられて、水泳を見に行ったこともうっすらと思い出しました。
日本人は鼻が低かったのでその差で敗れたなどと聞かされたのを覚えています。
子供だから信じてしまいました。
メルボルンオリンピックは私もまだ小さかったのであまり記憶にありませんが、次のローマオリンピックでは連日現地の速報が新聞やラジオで流されていたのを思い出します。
ローマオリンピックではマラソンのアベベも話題になっていたのを記憶しています。
あの頃は第二次世界大戦が終わってまもなくの時代ですから、まだ世界はその痛手から悲惨な思いを共有していたと思います。
つまりどこも貧しく、みんな生きるのに必死な時代だったでしょう。
そういう時代にオリンピックは各国の人々に勇気と希望を与える存在だったと思います。
東京オリンピックは、女子バレーボールの東洋の魔女やマラソンの円谷など、大いに沸き立った良き時代だったと思います。
体操ニッポンの遠藤幸雄や重量挙げの三宅義信などが活躍しましたね。
さて、2020年の東京オリンピックはどのような大会になるでしょうか?
先日は平泳ぎで渡辺一平が脅威の世界新記録を出しましたね。
エンブレム問題や国立競技場問題など、お騒がせしていましたが、若い人たちが希望を持てる大会になるように、みんなで盛り上げていきましょう。